自分流悪路走破考察


「道」の定義

[2003-10-29]

 個人的な感覚でいうと、「道場」というのは特別な意味があると思っています。

 例えば「〜塾」というのだと技術や知識を詰め込む場という一般的なイメージが強いので、精神的な 鍛錬や思想的な教育からは程遠いというイメージがあります(江戸時代の松下村塾などは例外ですが)。

 あくまでも最近の公文や受験勉強の為の「塾」というのがイメージの元です。 「TEAM○○」とか「〜会」とか「〜団」というのもある一定の目的のある人が集まる場という のが一般的な使い方ですよね。

 「〜道場」というものある目的の為に集まる場という点では塾や会、TEAMなどと共通なのですが、 この言葉だけに「道」というのが入っているのが大きな差だと思うのです。つまり、「道」ということ に対して追求しようとする姿勢のある者の集団であるというのが「道場」の定義だと思うのです。

 私の「道」に対する考え方は概ね剣道をしていた時に教えてもらった事の受け売りなのですが、 古くからの友人で今は剣道の指導者になっている奴がいるので試しに「術と道の違いってなんじゃろ な?」と聞いてみました。

 普段から小学生などに教え慣れている奴だけにいろいろと詳しく説明してくれましたが、 概ね私が言っていた「(武道は)礼に始まり礼に終わる」や「剣道という武道を通じて己を鍛錬する」 「礼節の中にはモラル・マナーも含まれる」ということで間違いないと言ってましたが、もうひとつ 「不動心を養う」ということも言っていました。つまり精神の鍛錬が重要であると。

 もう1人、会社の同僚で未だ実業団剣道の方で現役の奴がいるので試しに「術と道の差」を聞いて みましたが、はっきりと「私は強さ(術)だけの追及(笑)」と言い切ってました。  まあ彼はそんな事を言ってますが、社会人として持ち合わせるべき礼節などは当然持ち合わせて そう言っているのですが。  それでも「不動心」が重要だということは言ってました。つまりどんなに体格や技が優れた人でも 精神的な脆さがあると勝負では負けるということです。

 もうすでに私の年代だと社会人の世界でもピークを超えているので、単純な「強さ」でいえば 5歳ほど若い人たちには敵わないみたいですが、精神的なものだとか駆け引きの巧妙さ、技と いうのは鍛錬を続ける限り衰えることがないのでこれからも辞めるつもりはないとも言ってました。 実際、70〜80歳の一般的には老齢にある方とお手合わせして貰うと、上手いことかわされ たり、不思議と攻めあぐんだりすることがありました。

 今から思うと、剣道をしていた頃にしていたことというのは「道」の追求でいうと実に利に かなったことをしていたのだと思うようになりました。  まず上下関係の厳しい世界なので目上に対する言葉使いは最初に徹底的に叩き込まれました。 道場に入る時や出る時は必ず礼をする。正しい姿勢というのも叩き込まれる。練習が始まるときや 終わるときは「正座、黙想、お互いに礼、神前に礼」を必ずしました。  一見なんでもなさそうなことなのですが、毎日毎日することに意味があることなのだと今さら ながらに思います。「礼をする」ということも「今の自分があること全てに対して感謝することだ」と 教えられました。

 「黙想」というのも今にして思えば非常に重要な「儀式」ですね。正しい姿勢をして、目を瞑って (正確に言うと半眼はあけておくものですが)心を静め、心の中を完全に真っ白にします。  戦い・訓練の前後に一度心を空にして、集中力を高めるということは重要なことだと思います。 クロカンに行くと、「わ〜っ!」と急に弾けたように騒ぎ立てる集団に出くわすことがありますが、 そういう集団とはまったく正反対のことをしている訳です。

 精神を鍛えるという点でも次のようなことを教えられました。「急に驚かされてビックリする ようでは鍛錬が足りない。ヘソの下に常に気を集めておいて、常にどっしりと構えておかねば ならない」と。

 黙想はこれを鍛えるよい鍛錬法だったのでしょう。予期せぬことが起こっても冷静に対処できるか どうか?というのは単に場数を踏めば上達するというものでもないでしょう。経験するに越したこと はありませんが、場数は踏んでいるはずなのに応用が利かなくて右往左往するのをみることもあり ます。また危険な体勢になったときに冷静にリカバリー出来るか出来ないか?も心の強さが要求され ることです。そういう意味で「不動心」というのは非常にクロカンでも重要なことでしょう。

 精神的・体力的に厳しい状況にまで追い込まれても決して諦めないというのも教え込まれた気が します。特に小学生の頃所属していた道場は県下でも厳しいことで名が通っていた道場でした。  剣道を始めたのは小学一年生の時でしたが、三年生になった頃から「特訓組」に組み込まれて、 それこそ毎日血のションベンが出るほどシゴかれました。平日は毎日練習、日曜日は毎週試合が 待っているという生活でした。一年から五年生までは夏には同志会という水泳の方にも参加して いたので1〜3kmほど泳いだ後に道場に行って脱水症状になるくらいまで毎日バシバシやられた こともありました。

 先出の会社の同僚は私の学生の頃を知らないので、「小学生の頃は懸かり稽古を連続で 一時間ほどやらされて、動きが鈍くなってきたら殴られるわ、どつかれるわ、蹴とばされるわ、 壁に叩き潰されるわで血反吐を吐いてたわ」という話をしてたら「梶原さんもアレを経験して るんじゃなぁ!」と懐かしそうに話すことがあります。  今でもアレを思うと少々のことは苦にならないですね。あの悪夢みたいな稽古や当時の先生達を 思い出すと冷や汗が出ることもありますが(苦笑)。

 私はというと特訓の甲斐なく、弱かったり、剣道自体がそれほど好きになれなかったというのも あって12年ほどで辞めてしまいました。ですが当時は非常に体格的に劣っていた(背が低かった) ので、勝つにはどうすればいいか?というのあれこれと考えていたものです。持久力と体格では 劣っていたのですが、瞬発力だけは抜群だったので、試合などでは蹲踞(そんきょ)から「始め!」 の言葉がかかると同時に一気に飛び掛っていくとか、足でかき回す、変則的な動きをする(かつぎ面 や逆胴、フェイント、鍔迫り合いで殴る・足を踏む、ボクシングでいうとダッキングやウィービング を繰り返す)、油断させておいて飛び掛る、突っ込んでくる相手には遠慮なく垂れ(股間ですね) の辺りに突きを入れる、コカされたら構わず相手の足を竹刀で払う・・などの変則的な技を考えて 実行するのだけは得意でした。学年が大きくなるにつれ、変則タイプは通用しなくなっていったと いうのも辞める理由にはなりましたが、その頃から「ダメならダメでどうにかしてやろう」と 創意工夫することはしていたかもしれません。本当は正統派というのが良いのかもしれませんが。

 ちょっと話は脱線してしまいましたが、ちまたには結構「〜道場」という言葉が氾濫してますが、 それがもし「〜塾」や「TEAM〜」とか「〜会」と同じ様な意味で使われているとするなら、 私みたいな武道出身者からしてみると大きな違和感があるのです。

 「道」の先に求めるものというのは「人間性を高める」ことであって、競技で勝つことや、修理や クルマの構造やクロカンの技を覚えることや、走破する愉しみを得ることなどは、こと「道」を 求める者にしてみると枝葉に過ぎないというか、人間性を高めるのに必要な物のうちの一つに過ぎ ないという思いがあります。

 私的にいうと、四駆の業界でも「〜道場」というのがもう少し普及してもらいたいものだと 思います。というのは前にも書きましたが、こと四駆で遊んでいる人に最も欠けているのが「精神面 での鍛錬(不動心を養うこと)」であったり「礼節を重んじる(モラルやマナーを守る)」ことで あったり「己の鍛錬の為に長く続けていくことを重んじる」ことだと思うのです。

 ですからこれまでも「〜道場」を名乗っている方々、これから名乗ろうとする方々にはそこら へんを念頭において貰いたいと思います。

 そういう意味を知らずに「道場」を名乗るのは間違いだと思います。競技で勝つのだけが目的だとか 技や知識を得る為だけに集まる集団にするというのだとすると「道場」という名を冠するのは 不適当であるといえます。もし今まで礼節・モラル・マナーなどに気を遣うことなく「道場」を 名乗ってきていて、これからも「術」主体の集まりでしかするつもりのないというのでしたら別の 名にした方がよろしいでしょうね。「道場」というのは何も板の間や畳が敷き詰められている 訓練場という意味ではありませんから。

 だからここに来られる方にも、程度の差はあれ「道の追求」をしてもらいたいと思います。 もちろんそれぞれの出来る範囲で構わないですし、そう言っている私も実際大したことないですから。

そういうのもあって、ある程度はマナーやモラルに関して口やかましくなるのは致し方ない ことだと思います。逆にそう口やかましく言ってくれる人はありがたいことですし、貴重な存在で あるだといえると思います。

 皆さん、これからも宜しくお願いします。お互い「クロカン」を通じて人間性を高めていきましょう。



自分流悪路走破考察 の索引に戻る

Page057に戻る

Page059を開く
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送